笛の音色と共に…
Column
  1. トップページ
  2. 笛の音色と共に…
  3. その7「指揮者がいない」
笛の音色と共に…
Column
その7「指揮者がいない」
たとえ素人の合唱団の場合であっても、指揮をするということは最高の演奏行為だと思う。まして、オーケストラの指揮ともなれば、たくさんの種類の楽器と演奏家を使って自分の音楽を作り上げることができるのだから、演奏家として最高の仕事であるように思う。

私も子どものころには指揮者を夢見ていたのだが、いまでは指揮者がいない音楽をすることに落ち着いてしまった。 「オペラは指揮者によって進行するのだが、歌舞伎の音楽はずいぶん複雑な構造でいながら指揮者がないのはなぜだろう…」という疑問をよく聞く。

日本音楽の場合は、いくら大編成でも指揮者は使わない。だが歌舞伎や舞踊の音楽は、指揮者が大勢集まって音楽をしていると言うこともできる。

歌舞伎の音楽はもとより大編成でいて、しかも蔭囃子を含めたら楽器のパートも複雑である。そのうえ合奏練習を積み重ねて、音楽を仕上げることはあまりしない。リハーサルは一度だけでいて、安定した演奏がなされることに緊張感の漂う音楽的魅力を感ずる場合が多い。

三味線音楽、特に長唄のようにお囃子が付いていると、指揮者なしでいて音楽が組立られる何かが必要なはずである。そこで例として、長唄「鶴亀」の場合を分析してみることにする。

幕が開くと、中央の三味線(立三味線)が「フッ」と息を止めて「シャン」と一バチ当てる。この息づかいと三味線の音を聞いて、中央の唄い手(立唄)が一人で《それ青陽の春になれば…》と唄い始める。続いて立三味線が「ヤ」と声をかけると全員の三味線と唄が始まる。ここまでは立三味線が指揮者的な位置にいる。

つづいては「来序」という囃子が入ってくるが、その指揮者的なきっかけは笛で「ヒーー天、フよーポン…」と締太鼓のあとに大小の鼓が続く。しばらくこの形が続いて、唄が一区切りするとき「来序」が終わる。そのときは今まで「イヤー天、ホー天」という掛け声をかけていた締太鼓が、指揮者的な終わる合図として「ヨイー天」と掛け声を変える。すると囃子全員が終わりの手(上げの手)を打って終わる。

ところが、この囃子と唄が終わってしまっていないうちに、三味線は次のゆっくりとしてテンポのフレーズに入っているが、そのきっかけは立三味線の「ヤ」の掛け声によっている。

このように音楽のテンポが変わるところ、調子の変わるところ、唄の出だしなどについては立三味線が「ヤ」「ヨーイ」「ヘッヤ」などの掛け声による息づかいによって、指揮者の役割をなしている。したがって曲全体の進行については立三味線が一番指揮者的な役割が多い。

「鶴亀」では続いて「序、破、急」の「破」の部分である《庭のいさごは金銀の…》になるが、この出だしは大小の鼓のきり短かな「ハオー」の掛け声によるが、この掛け声の持つ軽快な息づかいが、次の部分の明るく軽やかな雰囲気を象徴しなければならない。したがって、この部分の指揮者は大小の鼓であるといえる。

つづいて「問答」になるが、ここは唄の語りに装飾程度の三味線が添えられていて、完全に唄がリードする。次に、たっぷりと唄の聴かせどころである「二上がり」があって「楽の合方」となるが、そこらあたりは省略するとして「急」の部分に入る。

《月宮殿の白衣のたもと…》《秋は時雨の…》《山河草木…》どの部分も締太鼓の「ホー天、天」のリズムで始まり、締太鼓の「テン、テン」のテンポが全体のテンポを決める役目を果たしている。したがって、「急」の部分はほとんど締太鼓が指揮者の役目をになっている。

そして曲は終わりになるが、ここを「段切れ」といって曲の終わりがパターン化されている。鼓、唄、三味線、笛と決められた順に指揮者の役目をして、最後は立三味線の「ヤ」の掛け声で全員が曲を終わる。

「きっかけを落さないように」と言うように、「きっかけ」が織り成して曲を構成し演出をしている。したがって各パートが、それぞれに決められた「きっかけ」に責任を持たなければならない。すなわち各パートのリーダーが、代るがわる指揮者の役目をして曲づくりをする。

全体の曲のながれについても、事前の話合いによって決められる場合が多い。ただし、リサイタルなどの場合は、一人の曲の解釈を全員の奏者に徹底して行われる。このように、長唄など歌舞伎の音楽の場合は、掛け声も音楽の重要な構成音となって様式化しているなど、指揮者を必要としない音楽として完成しているのである。
山田 藍山
藍ノ会
MOVIES'「篠笛を吹く」