笛の音色と共に…
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その6「”古い”と”古くさい”」
十月は、名古屋の御園座で歌舞伎の顔見せ興業の月になっている。今年は「勧進帳」が出ることになって、私も唄の端に座らせていただくことになった。

ウィークデー、舞台に座ってふと客席に目をやると、二階席がまっ黒で異様な感じを受けることがある。高校生が学校から引率されて鑑賞に来ているらしく、特に男子校の日は濃紺や黒の学生服に埋めつくされて、華やいだ一階席との様子の違いにとまどいを感じてしまうほどである。

ところが、この生徒たちの鑑賞態度にはいろいろと考えさせられることも多い。まず、幕が開く前には、緞帳の向こうからいつになく落ち着かない騒がしさが伝わってくる。ちょっと心配な気持になるが、その騒がしさのわりには幕が開くと急にしんとして静かになる。

黒一色の二階席にじっと目を凝らしてみると、そりくりかえって通路に足を投げ出している者、前の席に両足を乗せて眠ってでもいるのか椅子から滑り落ちそうにしている者など、あまり誉められたものではない。しかし、それにしては静かに鑑賞できている。

この生徒たちの静けさは、学校の数学や国語の授業時間と同じように固い椅子に縛り付けられでもしているように座らされていて、あきらめの境地で睡眠をとっている者が多いのだろうと思っていた。ところが、芝居が進み聴きどころ見どころともなると二階席からも大きな拍手が湧く。

不思議に思って二階席に注意を向けていると、足を投げ出している者も隣によりかかっている者も皆拍手を送っているではないか。これを見たとき、私は何故か熱いものが込み上げて来る想いがした。

私は生徒たちの顔が見たくなって、幕が降りると急いで外に出てみた。するとそこには、茶色とか黄色とか髪を派手に紅葉させ、ずり落ちそうなズボンの一群が帰ろうとしていた。

後で思い返してみると、生徒たちが拍手を送っているところは物語の内容にではない。様式化され誇張された表現の場面と、その音楽の「いき」な間あいの緊迫感に手を叩かされてしまうという状態のような気がしてくる。特に「連獅子」「娘道成寺」などの歌舞伎舞踊では、そのことがはっきりと言える。生徒たちはこの瞬間、歌舞伎の音楽の魅力に陶酔してしまうのだろう。

高校生の大集団が舞台に送る拍手には、無意識のうちに歌舞伎の音楽、三味線音楽への絶賛の意味が込められていたと思う。ここでは歌舞伎の音楽が「古くさい」などとは決して思っていなかったはずである。むしろ新鮮な響きとして若者の心の琴線に触れたのだと思う。

日本の音楽が、特に教育の場では「古くさい」音楽といわれて採り上げられていなかった。だが教師たちは、自分の感性で本当に「古くさい」と感じていたのだろうか。「古い」時代の音楽という概念に捕らわれて、錯覚していたにすぎないのではないかと思う。

「古い」ということは、魅力が無いということでも現代に生きていないということでもないはずである。もしも日本音楽が「古い」ということであれば、バッハもベートーベンも、いやドビッシーやラベルだって「古い」ということになってしまう。

「古い」音楽ということでなく「古くさい」と感ずることを問題にしたい。当然のことだが「古い」音楽をすべて「古くさい」とは言えない。むしろ新しがって作られた曲の中には、「古くさい」と感ずる曲がたくさんある。

古い新しいにかかわらず、いつの時代にあっても完成度の高い音楽は新鮮で心を打つ力がある。そこには中途半端な借物や思いつきではなく、磨きあげられた純粋さが存在するように思う。完成度が高いほど純粋になるのかもしれない。

教育音楽の場合は、この純粋さが子どもを変化させる教材の力でもある。
山田 藍山
藍ノ会
MOVIES'「篠笛を吹く」